Se connecter写真を閉じたあとも胸のざわつきは消えなかった。
私はソファに座ったまま、ぼんやりスマホを握りしめる。
居酒屋の明るい照明。
楽しそうな笑い声が聞こえてきそうな写真。
その端に映っていた悠斗。
私の前で見せる顔とは少し違って見えた。
なんでだろう。
笑っていただけなのに。
それだけなのに、妙に遠く感じた。
私は画面を閉じる。
「……考えすぎ」
そう呟いてみる。
でも声にしたところで、胸の苦しさは少しも軽くならなかった。
雨音が窓を叩いている。
時計を見ると午後九時半を過ぎていた。
悠斗はまだ帰ってこない。
私は立ち上がり、冷めかけた味噌汁を温め直す。
もう食べないって言われてるのに。
それでも帰ってきた時、何かあった方がいい気がした。
そういうところが駄目なんだろうな、と最近よく思う。
頼まれてもいないことを勝手にして。
期待して。
少し傷つく。
だったら最初からやらなきゃいいのに。
でも、それができない。
私は味噌汁を弱火にかけたまま、キッチンに寄りかかった。
昔、母が言っていた言葉を思い出す。
『好きな人には、してあげたくなるものよ』
その時は、そういうものなんだと思った。
だから料理も覚えたし、家事だって苦じゃなかった。
悠斗が「美味しい」って言ってくれるだけで嬉しかった。
必要とされてる気がした。
……でも。
今の私は、本当に幸せなんだろうか。
そこまで考えた瞬間、玄関のドアが開く音がした。
私は反射的に顔を上げる。
「ただいまー」
悠斗だった。
少し酔っているのか、声が緩い。
「おかえり」
私はすぐにキッチンへ向かう。
「何か食べる?」
「んー、ちょっとだけ」
「味噌汁あるよ」
「あ、飲む」
その返事だけで、私はまた動いてしまう。
お椀を出して、温め直して、ご飯も少しだけよそう。
自分でも単純だと思う。
さっきまであんなに落ち込んでいたのに。
でも悠斗が帰ってくると、ちゃんとしなきゃって気持ちになる。
「うわ、外めっちゃ降ってた」
悠斗はソファに座りながら髪をかき上げる。
スーツの肩が少し濡れていた。
「傘持ってったのに?」
「途中で風やばくてさ」
「あー……」
私はタオルを持ってきて渡す。
「風邪引くよ」
「ありがと」
悠斗は自然に受け取る。
その自然さが、少しだけ苦しかった。
私は向かい側へ座る。
悠斗は味噌汁を飲みながら、スマホをいじっていた。
「今日、結構遅かったね」
「ん? あー、二軒目行ってた」
「そっか」
「久々に飲んだわ」
楽しそうだった?
その言葉が喉まで出かかって、止まる。
私は代わりに、「楽しかった?」とだけ聞いた。
悠斗は少し笑う。
「まあ普通」
普通。
その答えに、なぜか少し安心してしまう。
私は自分の膝を見つめる。
こんなの、変だ。
楽しかったって言われたら傷つくのに、つまらなかったって言われても嫌で。
私は何を確認したいんだろう。
「真琴?」
「え?」
「なんか今日静かじゃない?」
「そうかな」
「疲れてる?」
その声は優しかった。
本当に、普通の恋人みたいに。
だから余計に分からなくなる。
私は無理やり笑った。
「ちょっと仕事で疲れたかも」
「そっか」
悠斗はそれ以上聞かなかった。
私は少しだけホッとして、少しだけ寂しくなる。
もし今、『最近ちょっと寂しい』って言ったら、悠斗はどうするんだろう。
困るかな。
面倒くさいって思うかな。
それとも、ちゃんと聞いてくれるんだろうか。
でも私は結局、何も言えない。
重い女になりたくなかった。
悠斗の負担になりたくなかった。
だからいつも、『大丈夫』って笑ってしまう。
その時、悠斗のスマホが震えた。
悠斗は画面を見る。
そしてほんの少しだけ、口元を緩めた。
私はその表情を見てしまう。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
「誰?」
気づけばまた聞いていた。
悠斗は顔を上げる。
「ん?」
「……あ、ごめん」
私は慌てて笑う。
「別に意味ない」
「会社のやつ」
悠斗はあっさり答える。
「また飲みの話」
「そっか」
私は頷く。
それ以上、何も聞けなかった。
聞いたところで自分が傷つくだけな気がした。
悠斗は味噌汁を飲み終えると大きく息を吐いた。
「はー、生き返る」
その顔を見て、私はまた少し安心してしまう。
帰ってきてくれた。
ちゃんとご飯を食べてる。
それだけで嬉しいと思ってしまう。
でも同時に、胸のどこかで別の声がする。
――私はいつまで、帰ってきてくれるだけで満足してるんだろう。
その考えに、自分で少しだけ怯えた。
展示に寄らなかった翌日、私は少しだけ不思議な気持ちで目を覚ました。 昨日、私は行きたい場所へ行かなかった。 それなのに、後悔はあまりなかった。 もちろん、展示は見たい。 朝倉さんに会えたら嬉しい。 器を使った感想も、いつか話したい。 でも昨日の私は疲れていた。 その疲れを無視してまで行かなかった。 そのことが、思っていたよりも自分の中で大きかった。 前なら、楽しみにしていた予定を逃した自分を責めていたかもしれない。 せっかく行ける日だったのに。 今日行かなかったら次はいつになるか分からないのに。 そうやって、自分で自分を急かしていた。 でも、展示はまだ続いている。 今日行けなくても、また別の日がある。 楽しみは、一度で全部使い切らなくてもいい。 私はカーテンを開けた。 朝の光が水色の花瓶に当たる。 クラゲのキーホルダーが、窓辺で小さく揺れていた。「おはよう」 いつものように言う。 返事はない。 でも、この部屋の静けさは、今日もちゃんと私を迎えてくれていた。◇◇◇◇ 朝食には、新しい器を使った。 ヨーグルトにブルーベリーを少し。 トースト。 紅茶。 昨日よりも器が手に馴染む気がした。 たった二回、三回使っただけなのに。 食器棚から取り出す時、もう少し迷わなくなっている。 白い器の隣に置いた場所が、少しだけ定位置になってきたからかもしれない。 私はスプーンを持ち、ヨーグルトを食べた。 冷たい。 少し酸っぱい。 ブルーベリーの紫が、器の青みとよく合っている。 普通の朝。 普通の味。 でも、少し嬉しい。 そういうものが増えていくことが、今は楽しかった。
翌朝、私は新しい器を食器棚から取り出した。 昨日の夜にも使ったけれど、今日はちゃんと朝のヨーグルトを入れる。 そう決めていた。 プレーンヨーグルトを少し多めに入れて、上にブルーベリーをのせる。 冷凍庫から出したばかりの実は、白いヨーグルトの上で小さく霜をまとっていた。 青みのある器に入れると、昨日よりも朝の光に馴染んで見える。 私は丸いテーブルに置き、トーストと紅茶も並べた。 窓辺には水色の花瓶。 薄い青のカーテン。 クラゲ。 テーブルには新しい器。 その景色を見て、胸の奥が静かに明るくなる。 普通の朝だった。 特別な予定はない。 仕事へ行って、帰ってきて、洗濯物を畳んで、夕飯を作る。 それだけの日。 でも、朝のテーブルにひとつ新しい器があるだけで、その普通の日が少し楽しみになる。 私は手を合わせた。「いただきます」◇◇◇◇ 会社に着いてから、昼休みに森下さんへ写真を送った。『展示で器を買いました。今朝ヨーグルトを入れた』 すぐに返事が来る。『素敵です! 色が藤崎さんのお部屋に合いそうです』 写真には部屋はほとんど写っていない。 でも、森下さんはそう言った。 続けてもう一通。『今度行った時、その器で何か出してください』 私は少し笑った。『ヨーグルト?』『お客様に朝食を要求する後輩、強すぎますね』『焼き菓子なら出せるかも』『予約します』 二脚目の椅子。 焼き菓子。 新しい器。 また誰かが来る時、その器を使う未来が少し見えた。 買った時は私のための器だった。 でも、誰かに何かを出す器にもなるかもしれない。 それが嫌ではない。 前のよう
帰り道、私はスーパーに寄った。 買うものは決めていた。 ヨーグルト。 それだけ。 でも、棚の前に立つと少し迷ってしまう。 いつも買っているもの。 少し高いもの。 果物入りのもの。 小さなカップに分かれているもの。 特別な器を買ったから、特別なものを入れたくなる気持ちもあった。 でも、展示室で自分が言った言葉を思い出す。 特別なものを入れるためじゃなくて、普通の日に使うための器にしたい。 私はいつものプレーンヨーグルトを手に取った。 それから少し考えて、冷凍ブルーベリーもかごに入れた。 少しだけ色を足す。 それくらいなら、普通の日の中にあってもいい。 会計を済ませて店を出る。 バッグの中には、小さな深皿。 手提げ袋にはヨーグルトとブルーベリー。 何でもない買い物なのに、少しだけ胸が弾んでいた。◇◇◇◇ 部屋に帰ると、いつものように言った。「ただいま」 薄い青のカーテン。 水色の花瓶。 クラゲ。 丸いテーブル。 二脚の椅子。 その景色の中に、今日から新しい器が加わる。 私は手を洗い、バッグから包みを取り出した。 作家さんが丁寧に包んでくれた薄紙を、ゆっくり開く。 淡い青みのある小さな深皿。 展示室の光で見た時より、部屋では少し落ち着いた色に見えた。 水色の花瓶より少し灰色がかっている。 白い器よりも静かで、でも暗くはない。 私は丸いテーブルに置いた。 それだけで、テーブルの景色が少し変わった。 買ったばかりの器は、まだ私の部屋に少し遠慮しているように見える。 これから使っていけば、馴染んでいくのだろう。 買った時が完成ではない。 作家
器を買ったあと、私はもう一度『余白の席』の前に戻った。 さっき見た時より、写真の中のテーブルが少し近く感じる。 バッグの中には、買ったばかりの小さな深皿がある。 その重みを意識すると、展示をただ見に来た人ではなく、何かをひとつ持ち帰る人になった気がした。 写真の中の椅子は、相変わらず静かに空いている。 でも、もう寂しくは見えなかった。 そこには、次に何を置くか決められる余白がある。 私はノートを開き、さっきの作家さんの言葉をメモした。『器は、使う人の生活に入ったら、その人のもの』『買った時が完成じゃない』 書いてから、胸の奥が少し温かくなった。 私の部屋も、たぶんそうだ。 契約して鍵を受け取った時に完成したわけではない。 カーテンをかけて。 クラゲを置いて。 花瓶を選んで。 千尋や森下さんが来て。 毎朝ヨーグルトを食べて。 少しずつ、私の部屋になっていく。「何か、見つかりましたか」 声をかけられて振り返ると、朝倉さんが立っていた。 案内を終えたのか、少しだけほっとした顔をしている。「はい」 私はバッグに手を添えた。「器をひとつ買いました」「そうでしたか」「小さい深皿です。青みのある色で」「藤崎さんのお部屋に合いそうですね」 自然に言われて、私は少し笑った。「まだ見たことないですよね、私の部屋」「そうですね」「なのに、何となく合いそうって言われるの、少し不思議です」「すみません。勝手に想像しました」「いいです」 私は首を横に振った。「その想像、嫌じゃないです」 言ってから、少しだけ頬が熱くなった。 朝倉さんは一瞬黙り、それから穏やかに笑った。「ありがとうございます
『余白の席』の前を離れて、私は展示室をもう一度ゆっくり回った。 一度見たはずの写真も、朝倉さんと話したあとでは少し違って見える。 器は、棚に飾られているだけではなかった。 写真の中で、朝の光を受けていた。 濡れた台所に置かれていた。 食べ終えたあとのテーブルで、少しだけ傾いていた。 使われている途中。 使われたあと。 誰かの生活に触れている時の器。 それを見ていると、自分の部屋の白い器を思い出した。 ヨーグルトを入れる日もある。 かぼちゃを入れる日もある。 森下さんのお菓子を少しのせた日もある。 同じ器なのに、その日によって少しずつ違う。 それは、ただの皿ではなくなっていくということなのかもしれない。 私の生活の時間が、少しずつ染み込んでいく。◇◇◇◇ 展示室の中央に、小さな器がいくつか並んでいた。 手に取ることはできないけれど、近くで見ることはできる。 白い小皿。 灰色がかった青の鉢。 薄い茶色のカップ。 どれも形が少しずつ違っていて、完璧に整っていない。 でも、その不揃いさが温かく見えた。「気になるもの、ありましたか?」 横から声をかけられた。 振り向くと、四十代くらいの女性が立っていた。 落ち着いた色のワンピースに、麻のエプロン。 名札には、器の作家さんらしい名前が書かれている。「あ、はい。これが」 私は灰色がかった青の鉢を指した。「色が、好きで」「ありがとうございます。その色、窯から出るまで毎回少し変わるんです」「そうなんですか」「同じ釉薬でも、置く場所や火の当たり方で違うんですよ。だから、完全に同じものは作れなくて」 作家さんは穏やかに笑った。「でも、そこが面白いんです」
朝倉さんは、私の手元のノートに視線を落とした。「書いてくださっていたんですか」「あ、はい」 私は少しだけ照れた。「展示を見ながら、忘れないうちにと思って」「嬉しいです」 朝倉さんはそう言ってから、近づきすぎない距離で隣の壁を見る。 そこには『余白の席』の写真があった。「その写真の前に、長くいらっしゃいましたね」「はい」「気になりましたか」「気になったというか……好きでした」 前より、その言葉を言うのが怖くない。 好きでした。 私はそのまま続けた。「丸いテーブルと、二脚目の椅子が写っていて」「はい」「私の部屋にも、丸いテーブルと椅子が二脚あるんです」「そうなんですね」「一人暮らしなのに、二脚にしたんです」 話しながら、少しだけ笑う。 初めて家具を選んだ時のことを思い出した。 一脚だけにする選択もあった。 でも私は、二脚にした。 誰かが来るかもしれないと思ったから。 誰かを待ち続けるためではなく、自分の部屋を外へ開いておくために。「最初は、少し変かなと思ったんです」「一人暮らしで二脚?」「はい。でも、友達が来てくれて、そこに座ってくれて」「はい」「今は、その椅子があってよかったと思っています」 朝倉さんは、静かに頷いた。 余計な合いの手を入れず、言葉を待ってくれる。 だから私は、もう少し話せた。「空いている椅子って、前は寂しいものだと思っていました。でも今は、違う気がして」「どう違いましたか」 私は写真を見た。 夕方の丸いテーブル。 湯気の立つカップ。 畳まれた布が置かれた椅子。「誰かが座ってもいいし、座ら
翌日の朝、私は少し寝坊した。 目を覚ますと時計は七時十分を指している。「……やば」 慌てて起き上がる。 いつもならもう朝食を作り始めている時間だった。 私は急いでキッチンへ向かう。 でもそこには思っていた光景がなかった。 悠斗が一人でコーヒーを淹れていた。
その日から私は少しだけ悠斗のスマホが気になるようになった。 別に見るつもりはない。 そんなことしたくないし、したら終わりだと思う。 でも。 通知が鳴るたび、無意識に視線が向いてしまう。 悠斗が笑うたび、胸の奥がざわつく。 自分でも嫌だった。 こんなの重い彼女みたいじゃない。
私はスマホの画面を見つめたまま固まっていた。『今日はありがとうございました!またみんなで飲みたいです!』 送信者は、『秋山 美咲』。 知らない名前だった。 でも、悠斗のスマホに届いた通知ではない。 私のスマホだ。 私はゆっくり画面を開く。 どうやらメッセージアプリの「知り合いかも」の
昼休み、スマホが震えた。 私は資料から顔を上げ、デスクの隅に置いていたスマホを見る。 悠斗からだった。『今日後輩来るから適当に飲み物買っといて』 私は画面を見つめたまま、少しだけ指を止める。 ――後輩。 今朝言っていた人だろう。『わかった。何人?』