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第7話 私が知らない時間

Auteur: 八月 猫
last update Date de publication: 2026-06-06 11:00:25

 写真を閉じたあとも胸のざわつきは消えなかった。

 私はソファに座ったまま、ぼんやりスマホを握りしめる。

 居酒屋の明るい照明。

 楽しそうな笑い声が聞こえてきそうな写真。

 その端に映っていた悠斗。

 私の前で見せる顔とは少し違って見えた。

 なんでだろう。

 笑っていただけなのに。

 それだけなのに、妙に遠く感じた。

 私は画面を閉じる。

「……考えすぎ」

 そう呟いてみる。

 でも声にしたところで、胸の苦しさは少しも軽くならなかった。

 雨音が窓を叩いている。

 時計を見ると午後九時半を過ぎていた。

 悠斗はまだ帰ってこない。

 私は立ち上がり、冷めかけた味噌汁を温め直す。

 もう食べないって言われてるのに。

 それでも帰ってきた時、何かあった方がいい気がした。

 そういうところが駄目なんだろうな、と最近よく思う。

 頼まれてもいないことを勝手にして。

 期待して。

 少し傷つく。

 だったら最初からやらなきゃいいのに。

 でも、それができない。

 私は味噌汁を弱火にかけたまま、キッチンに寄りかかった。

 昔、母が言っていた言葉を思い出す。

『好きな人には、してあげたくなるものよ』

 その時は、そういうものなんだと思った。

 だから料理も覚えたし、家事だって苦じゃなかった。

 悠斗が「美味しい」って言ってくれるだけで嬉しかった。

 必要とされてる気がした。

 ……でも。

 今の私は、本当に幸せなんだろうか。

 そこまで考えた瞬間、玄関のドアが開く音がした。

 私は反射的に顔を上げる。

「ただいまー」

 悠斗だった。

 少し酔っているのか、声が緩い。

「おかえり」

 私はすぐにキッチンへ向かう。

「何か食べる?」

「んー、ちょっとだけ」

「味噌汁あるよ」

「あ、飲む」

 その返事だけで、私はまた動いてしまう。

 お椀を出して、温め直して、ご飯も少しだけよそう。

 自分でも単純だと思う。

 さっきまであんなに落ち込んでいたのに。

 でも悠斗が帰ってくると、ちゃんとしなきゃって気持ちになる。

「うわ、外めっちゃ降ってた」

 悠斗はソファに座りながら髪をかき上げる。

 スーツの肩が少し濡れていた。

「傘持ってったのに?」

「途中で風やばくてさ」

「あー……」

 私はタオルを持ってきて渡す。

「風邪引くよ」

「ありがと」

 悠斗は自然に受け取る。

 その自然さが、少しだけ苦しかった。

 私は向かい側へ座る。

 悠斗は味噌汁を飲みながら、スマホをいじっていた。

「今日、結構遅かったね」

「ん? あー、二軒目行ってた」

「そっか」

「久々に飲んだわ」

 楽しそうだった?

 その言葉が喉まで出かかって、止まる。

 私は代わりに、「楽しかった?」とだけ聞いた。

 悠斗は少し笑う。

「まあ普通」

 普通。

 その答えに、なぜか少し安心してしまう。

 私は自分の膝を見つめる。

 こんなの、変だ。

 楽しかったって言われたら傷つくのに、つまらなかったって言われても嫌で。

 私は何を確認したいんだろう。

「真琴?」

「え?」

「なんか今日静かじゃない?」

「そうかな」

「疲れてる?」

 その声は優しかった。

 本当に、普通の恋人みたいに。

 だから余計に分からなくなる。

 私は無理やり笑った。

「ちょっと仕事で疲れたかも」

「そっか」

 悠斗はそれ以上聞かなかった。

 私は少しだけホッとして、少しだけ寂しくなる。

 もし今、『最近ちょっと寂しい』って言ったら、悠斗はどうするんだろう。

 困るかな。

 面倒くさいって思うかな。

 それとも、ちゃんと聞いてくれるんだろうか。

 でも私は結局、何も言えない。

 重い女になりたくなかった。

 悠斗の負担になりたくなかった。

 だからいつも、『大丈夫』って笑ってしまう。

 その時、悠斗のスマホが震えた。

 悠斗は画面を見る。

 そしてほんの少しだけ、口元を緩めた。

 私はその表情を見てしまう。

 胸の奥が、ひやりと冷えた。

「誰?」

 気づけばまた聞いていた。

 悠斗は顔を上げる。

「ん?」

「……あ、ごめん」

 私は慌てて笑う。

「別に意味ない」

「会社のやつ」

 悠斗はあっさり答える。

「また飲みの話」

「そっか」

 私は頷く。

 それ以上、何も聞けなかった。

 聞いたところで自分が傷つくだけな気がした。

 悠斗は味噌汁を飲み終えると大きく息を吐いた。

「はー、生き返る」

 その顔を見て、私はまた少し安心してしまう。

 帰ってきてくれた。

 ちゃんとご飯を食べてる。

 それだけで嬉しいと思ってしまう。

 でも同時に、胸のどこかで別の声がする。

 ――私はいつまで、帰ってきてくれるだけで満足してるんだろう。

 その考えに、自分で少しだけ怯えた。

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  • 『尽くしすぎたのでやめました。今さら後悔しても遅いです』〜帰らない人を待つのは、もうやめます〜   第5話 知らない名前

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